「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」 | 土方美雄の日々これ・・・

「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」

国立西洋美術館で5月12日まで開催されている特別展「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか? 国立西洋美術館65年目の自問/現代美術家たちへの問いかけ」を観た。もう火曜日の話だけれども、あれこれあって、疲れ果て、その感想を書く気力が、今日まで、なかった。

「国立西洋美術館は、それこそ未来のアーティストを育むところになってほしいという願いを託されながらに創設された・・にもかかわらず、それらの思いは事実上、置き去りにされているに等しい。なぜといって国立西洋美術館はこれまで一度として、設立以降の時間を生きた/生きるアーテイストらを触発することができたのかどうかを問うてはおらず、ましてや検証してもいないからである」という、問題意識をもとに、気鋭の現代アーティストたちに、美術館を開放し、美術館のこれからの役割と、未来への美術への提言とを、それぞれの展示作品を通して、自由に語ってもらおううという、企画である。

しかしながら、主催者の意図はともかく、西洋美術館に来る人には、イマイチ、ピンとこないテーマのようで、特別展の会場は、実のところ、とても、空いていた。特別展のチケット2000円を買えば、常設展も同時に観ることが出来るので、特別展を観終わったあとに、観たら、こちらは結構、混んでいて、要は、国立西洋美術館に来る人は、同館が所蔵する、膨大な「松方コレクション」を核とする、数々の西洋の名画を、単純に観たいんだということが、ハッキリ、その観客数の差に現れているという、皮肉な結果に・・。

私的に、観て、とても面白かったのは、すでに、以前、観たことのある作品だが、戦時中、戦争画を手掛けた藤田嗣治が、戦後に、パリに帰還するのではなく、もし、インドネシアのバリに流れ着いていたら・・という、ダジャレみたいな架空の設定での、「帰ってきたペインターF」をはじめとする、西洋主義へのアンチテーゼともいえる、一連の小沢剛作品や、同館所蔵の、自慢のロダンの彫刻を、何と、横に寝かせて展示するという、小田原のどかの、近代化の歪みを、文字通り、作品丸ごと本当に転倒!!!させてしまう試み、そして、上野の地にある同館の展示から、徹底的に排除されている、山谷で暮らす人々の日常を、ひたすら愚直に、描き続ける、弓指寛治の作品等々だ。

それに比して、梅津庸一やパープルームの作品は、圧倒的なボリュームながら、何故か、西洋美術館での展示に、違和感なく、スッカリ、溶け込んでしまっているような、そんな気も・・。

常設展示まで観たので、スッカリ、疲れてしまって、美術館のレストランで、ケーキと珈琲を頼んで、1時間以上、休憩。隣通しになった、アジアからの親子3人の観光客は、やはり、ケーキに珈琲を、1人分頼んで、それを3人で、わけあっていた。確かに、ケーキケットは千数百円円もして、高い。軽食などは、すべて、2000円近いお値段。これもまた、国立西洋美術館のまごうことなき、現実。山谷の民は、決して、入ることはできないだろうな・・と。

図録を、買った。3600円+税。ズシリと、重かった。